2020.05.07
想い・こだわり
〜街と私の物語〜 ここで暮らせてよかったと思える家と街
家族の、そして私たちの人生の思い出を刻む“場”となるマイホーム。
マイホームの思い出は、家の中だけで作られるものではありません。家がある街の風景や匂い、そして音も私たちにとって大切な思い出の場所に。
街に、家に家族の歴史が環る(めぐる)住まいを作りたい。
そう願い続けるしらかばハウジングから、今日は「ある街の物語」をお届けします。
美味しいコーヒーやお茶を飲みながら、のんびり読んでみてくださいね。
*登場する人物・舞台は架空のものです。
■懐かしい街の音・光、そして匂い・・・
元々は農地だったところを切り開いて作られた住宅街が私の育った街だった。
街の西側に小高い丘があり、晴れた日の夕暮れ時には大きな太陽がその丘に沈んでいく。
この季節、学校から家に帰ってくるときは、いつも夕陽が眩しくて「眩しいな、お腹が減ったな・・・」と思いつつ、目を細めながら自転車を漕いで家路を急ぐのが学生時代の日常だった。
丘の向こう側には小さな会社の寮があり、17時に仕事を終えて帰宅した社員が吹いていたのだろうか。
それとも運動会に向けて小学生がマーチングバンドの練習をしていたのだろうか。
夕飯前のひと練習、とばかりに、この時間にはいつもトランペットの音が微かに丘の向こう側から聴こえていた。
運動部でくたくたになるまで練習した私にとって、夕陽の色とトランペットの音色、そして空腹を刺激するかのように家々から漂ってくる夕ご飯の匂いが昼から夜に移り変わる時報のような存在だったのだ。
■「楽しいお節介」が待つ玄関
もう一つ、夕暮れ時の思い出といえば手紙も送り主も書かれずに、玄関先に無造作に置かれた野菜だった。
「母さん、また野菜があったよ〜」というのが、「ただいま」の代わりの挨拶。
すると母は「また隣のおじさんがくれたんだわ」「毎回悪いわね〜」と言いながら、ニコニコしながらその野菜を受け取り、夕飯のおかずが1品増えたものだった。
送り主は大体わかっていて、趣味で野菜を育てている隣のおじさんや、親が農家という向かいの同級生の家からというのが大概のケース。なぜか母は置かれていた野菜を人目見るだけで「このトマトは隣のおじさんだ」「ミニトマトはあんたの同級生の〇〇くんのお母さんが置いていったんだわ」と、名前も手紙も書かれていないのに送り主をピタリと当てていたから不思議なものだ。
父は夕ご飯のおかずがいつもより多いと、「今日も“たのしいお節介”があったのか。今回は誰からだい?」と母に話しかけながら、目を細めて、いつもより贅沢なおかずをつまみにビールを飲んでいた。
■たのしいお節介の輪が広がる街
我が家で「たのしいお節介」と呼んでいた名前のない贈り物。当然もらったからにはお返しも・・・ということなのだろう。
料理が好きな母はもらった野菜でおかずを大量に作り、近所に「たくさん作ったから」と配っていたし、果物が届くとなぜか甘いものが苦手なのにジャム作りにハマっていた父がいそいそと休日にジャムを作り「母さん、これお礼に渡しておいて」と、得意顔でダイニングテーブルに瓶詰めのジャムを並べていた。
「たのしいお節介には、たのしいお節介で返すのがこの街の流儀だよ」
なんて得意そうに呟きながら、父も母も近所の人たちとの交流を楽しんでいたように思う。
■たのしいお節介が“やさしいお節介”に変わっても
専門学校を卒業し、実家からも近い場所にある会社に勤めるようになった頃には、両親と同じように“たのしいお節介”の送り主たちも歳を取り畑に出るのが億劫になったのか、野菜のお裾分けは少なくなった。
その代わり・・・なのかどうかはわからないが、定年を迎えて家にいることが多くなったもの同士、両親は近所付き合いを楽しんでいる。
マスクやトイレットペーパーがなかなか手に入らなかった時期には、近所で「マスク足りている?うちにまだあるから使う?」なんて声を掛けあっていたようで、突然LINEで「トイレットペーパーを〇〇さんが分けてくれるみたいだけど、いる?」と連絡が入りびっくりしたこともあった。
実家を出てしまったこともあり、両親が元気に暮らしているかは正直になるところだが「近所の人が見てくれている」という安心感があるのも事実だ。
高校時代、夕陽に目を細めながら自転車を漕ぎながら聴いていたトランペットの音はいつしか聴こえなくなってしまったが、丘に夕陽が沈む光景は相変わらずだし、美味しそうな夕ご飯の香りは今日も夕方になればあの街に漂っていることだろう。
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